top of page

カム・スター

 目を見張るほどの快挙だった。彼は水泳で身につけた腕力、棒倒しで身につけた闘志、そして放蕩生活によって傷ついた心で、私の顔面をはたいた。まさか、歯を持っているとは思わなかった。抜けてしまった歯の代りを、彼は素早く出してくれた。殴る事も計算にあったのだ。

 差し歯というのか、そういうものがごもごもして上手く言えないのだが、私は殴られた。遠慮会釈なかった。どこにでもいる彼、そういうふうに見ていたから、私は油断してた。彼にとっては、むしろ私自身、「どこにでもいる彼」だったのだろう。だから殴るのだ。

 私はそれを思い出した。そうか、みたいに枕を抱えて悔しがったり。

どこにでもいたのだ、彼、つまり私は。自販機で買えるジュースと同じで、コップに注がれれば飲まれるのだし、缶に入ったままならばママなのだ。世の中のひとぢちって奴。くたびれた風情って奴。


                        *


 どうしてもというならと、私にとっては貴重でも高価でもあった、マイ生命を、カム子にあげた。とても美しい容姿の女性で、ある日ゴミ出し現場にいたのだ。TSUTAYAでその前の日、アジカンの『マジック・ディスク』という新譜を借りて、その漫画ぶりに驚かされていた。このバンドは一曲目から、漫画である。つまり何かを我々に伝えているが、それは、何らかの青写真がすでに我々の中に存在済みの事であり、わざわざ、もう一度同じ物語りをくり返していた。そういってしまうと、あのイラストスクールの生徒たちの力作も、あのイラストコンペの優良児たちの力作も、力みすぎの漫画である。

「あなたが伝えようとしている事の青写真は、すでに見飽きている」

「あなたの作品は青写真を脇に置いて、ただ塗っただけの『おとなの塗り絵』じゃないですか」

こんなこと、彼らに言ったら嫌味なんだろうなぁ……。

 人間にキラワレちゃう。そう思いながらマイ生命を渡した。


『カム子とは、カム星人の令嬢です。この間、東京スポーツというタブロイド紙に紹介していただきました。そして、和田アキコの番組でネタにされて、今は全国区です。』

 私はTVを見なかった。TVを点けると、私にはもう響かない共通語が吹き荒れていて、辛い。会社に行って、家に戻って、食事を済ませ、パソコンから光撃される。パソコンにノックアウトされる。にちゃんねらーに、啓蒙される。寝る。というのが私の毎日(マイ日)であった。

 カム子のことを、知らなかった。先ほども書いたが、その令嬢は恰好のいい美人だった。その目的は保険の勧誘ほど余裕はなく、女怪ほどの大博打ではないといった感じだった。最初は耳を疑った。『カム子とは、あなたにとって大切なものを奪うためにいます。それでもあなたがちゃんと生きてゆけると信じているから。』 ハッ!?と最初目と耳を疑ったのだ。私はたしかに、生活に疲れている、だとしても、生活なくして生命の維持はない。まったくその事がこの全うさを「装った」ご令嬢には分かっていない。 精気を奪われたら、食欲もなくなってしまう。どこへ行っても、私にはカム子が目に映った。別の事をしようと、ワクワクしているような気分も台無し。渋谷の文化村どおりで、バーガーチェーン店に入った。愛想がいいのかわるいのか、ここの受付は分からなかった。厚切りのフライドポテトを食べている時、私は手の親指と人さし指が塩で光っているのを見る時、みんなが自分のあげたワーワーと言う奇声に怖けづいた時、カム子に命を預けた。

 なぜ、そうなったのか。私をそうまでして疲れさせた原因はなんだろう?

 一人で生きて来た。思い出し笑いを一人でするのは結構だが、その「思い出のシーン」が悲しい。そこまでも一人だった。

 おもしろくて笑ったのは、誰かがおもしろい事を言った為ではない、自分だ。いつも一人。自分で自分をチェックしている。もうお開きなのだ。自作自演の無害なパーティー……


                        *


 一番近くにいるはずの人が、たまたま私にはいなかった。思いあたる節はあって、たとえば夏の日ざしの強い中、私はひじょうな目に遭っていた。校庭で顔を地面に押しつけられて、涙を流している。私はある時から異性との、派手な付き合いをしていた。ある時というのが私に生命が宿ったときだ。

 異性と、ただむずかしい話抜きの付き合いをしていた。

校庭には教師ばかりでなく、本来自由であるはずの子どもらまで居る。私をそこに座らせ、斜めに棍棒を振るい、それを何度かくり返した後で、体育倉庫のような冷やりした場所に閉じこめた。私が何をしたというのだろう。女性の体に触れ、奥まで入り、指を濡らして熱中して、性器が膨張したというだけの事で……。その時、一番近いはずの人が、私から消えたのである。

 みながお家に帰って、のらネコと私しかいない産業道路に、沿って、私はマイ生命というのを自覚した。

こういう、薄い空気の中で生きていこうと。


 私は二階にある自室にこもり、学校へも行かない。

 父親は空の上で、人の話を聞かない。ずっと昔、海水浴をしていて、まだ足も着かない頃、父といっしょに沖まで泳いでみようかと言いあった。ただ、父の方が先に地に足が着かなくなった。これは比喩である。

母親は、いつも完璧に私を無中にした。この「無中」というのは今造った言葉である。

 部屋にひき込もっていると、女友だちが励ましのメールをくれた。

「二度と会えないのね、寝られないのね」

 まるで私がEDにでもなったかのように。次第にふくらんでいった勃起衝動へのあこがれが、同性へのあこがれに変わっていった。その日の夜にすぐ、ゲイ向けのテレSEXに登録し、男の人として、いかに自分が勃起しているのか、確認してもらった。彼ら受話器の向うの幽霊たちは、やましい事を隠すように私の性器を讃えた。私は薄々気づいていた。自なるものと、他なるもの。そのどちらをゲイの人が選ぶのか? アナル、穴、という自なるものを選ぶのだろう。

 元々、臆病な心を持つニンゲンの正体とは、こうした在り方をしめすのだろうか…。


私の魂の不在…。これは永遠を手にしたことの疼きなのだろうか。だとしても、おかしな話だ。まちがっている。盛んに耳の後ろでそう聞こえる。まちがっている、と。

私の魂の不在…。これはまちがっていると。カム子と出会う前まで、よくこの精神の特権のような箱の中に、私は眠っていた。イビキをかいて。

 まるで世の中のヒトヂチって奴だ。こんな事までして捕われたいのか! 彼らの演技を見て私はそう思ってしまった。自なるものへの共感を集めて出きた筋肉。象徴へのねちっこいフェラチオ。濃い精子が放心と同時に蒔かれたときの疼き。この疼きを、私も体験した。もうこの歓びの虜だった。私は他なるものへの興味をなくしていた。ひらすらに落ちた。汗も、精液も、費やした言葉も、ありふれた幸遇もすべてを滑るように落ちていった。


「映画監督に向いているよ」

 と私にも映像作家への道があると教えてくれた友人。この人は絵描きだ。

 とても想像力が豊かで、人の話にすなおに頷いてしまう所が可哀相な、私とは遠いのに、何だか彼を忘れることができない。

「障害者の役ならできるかも! でも、嘘はつけないよ」

と、私に出演を迫られて、食堂で話していた。忘れてもいい事だが、まるですなおなので、心の中で撫でてしまう。マイ生命をカム子にくれてやったのに、この人間的寂寥は残った。

私は、友人をエレファントマンのような、奇型的見せものとして撮りたいと思うようになった。ひどい話でしょう。でも、それは時間が私の中でいまだ流れ、新たな生命を宿したことの華吹であった。カム子もそう言ってくれるので。


                        *


映画芸術という雑誌に私はコラムを載せた。あえて主語と述語をあやふやにして、どうとでも取れる内容にして投稿した。『プール』とか言うミニマルな映画に対して、敵意を少し混ぜた。


「さっきから言っているでしょ?演出意図はありませんって」――女性監督が増えているのは最近の日本映画が演出過多だからなのである。女優でも俳優でも、演出家のいらない演者である。場の空気を読み、相手の動きを捕え、自分に臨機応変を要求する。これは、演出家のすべきことである。しかし、最近の映画製作の現場では、なにかと女性が絡んでいて、演者は演者らしくしてて下さい、と言う。

 女性が演技にきびしいというのは、おそらく、相手が感じることに機敏でまたきびしいからなのだ。女優の演技を見破り、それはわたし(監督)の意図した所じゃないと言う。それから女優にはキャラでいて下さい、と指導する。そしてキャラクターを並べて存分に演出するのだ。これは何というか、サンリオ的な惑星である。

「もう我慢の限界!」

 俳優たちの本音が聞こえてきそうである。


 カム子は私にお昼を作ってくれて、私はそのメニューを、「カントク日記」としてブログに載せている。毎日、ブライアン・デ・パーマの『パラダイスの怪人』みたいな活劇を撮っている。不幸な人を一人出して、その人物を利用する人を不幸に描いて。最後は、不幸×不幸=ハッピーという、「あるあるネタ」。

 私には、それをするだけの屈折した欲望があった。以前から、潜在能力というか、見えるものより目に見えない細菌へのシンパシー(?)を持っていた。それが花開こうとしたのだ。どうか、よろしくお願いします! 私は祈った。絢爛豪華な映画のセットの中を、自由に行き来しながら、そう心の中で。照明係が灯りをたいて、メイク道具が宙を舞いながら、奇型的な友情を美化している。どんな苦労があっても、この舞台だけは守らなければならない。私が生きているということだ。止まらない拍手の模様を、この部屋の格子戸のあいだから、私は覗き続けるだろう。


bottom of page