top of page

ピアノの下

プロローグ  だれにも知られていない事は、だれかに知られてはならない事だ。

「彼はどこから来たの?」と彼と相手の事を呼んでいる会社のオーナー。ジャニー喜多川がタレントを呼ぶときに用いる(You)と同じ意味だ。

 このオーナーという奴が同性愛者である。この組合では、人の事をあなたとかお前とか貴様などとは呼ばず、全て「彼」になる。それにしてもこのオーナーの態度はバカらしい。おならみたいだ! 働き始めた頃、夜に、残業と称してインターネットゲームやYoutubeを見始め、朝になってしまった。そしたら裸だったのだ。椅子に坐らされている状態の全裸。男性としての自分がむき身の海老のように転がっていた。呆然としながら、そこにいっしょにいる男のおじさんの「彼彼彼彼」いう念仏を聞いているのだった。

 まるで五体満足を殊更主張しなくてもいい時代の申し子のような気分だった。諸君に分かるだろうか、この祝福のシャワー。朝の七時をとうに回った時計。



上質の一人

 これから何をして暮らしてゆこうかと、彼は思いあぐんでいた。

 売り言葉と買い言葉の一とおりの応酬が終わる。総括が始まったら、それを叩き台にボンゴの演奏だ。みんなそうやって暮らしている。好きな人がいたら、次に出てくるのは「嫌いなやつ」なのである。ただ、嫌っているだけにはしない。それを自分の中で、総括して、人生はたそがれながらも進む。そんな時、恋人と出会った。

 芸人の卵をしている娘さんで、彼とは年が八つ違った。つまり、体型も違ったのである。街中で、すごく綺麗にしている女の人と、肥満ぎみのぶ男が手をつないで歩いていると、みな目を見張る。だが本人達には些かの疑問もない。本人達には、だってそれこそが生の営みだから。

 一人暮らしとは、総括するべき事の山積である。だが二人でいるという事は、別に何も考えなくてもいいという事なのだ。自然なメロディ。それを奏でているに過ぎない。

 でもどこかでこうも思っていて、「もっと過激でありたい」と。


 彼は、恋人を捨ててまで、泥にまみれんとしていた。芸人の卵だった年下の娘さん。それを頭の中では割ってしまっていた。少し、面白いギャグみたいなもの。それは、つまらないモノマネタレントのつまらないレパートリーになった。ずたずたに裁断したのである。

 彼が再就職先に、おかまのオーナーがいる会社を選んだのは、ひとえにそれが理由で、ある人生を過剰に彩ろうとする行いだった。

 名前は近道早人といった。すごく歪な名前であった、そして反感を買いもした。彼の名を命名した親は、父親の誰人だった。雄雌の「雄」を使うつもりの祖父母は学問に関心の低い商人であった、だから文字化けして「誰人」なのだ。同じように誤作動したのがこの結果だ。

 近道早人なのだ。彼は、この程度の反応では飽きたらないと、常に、自分の名をわらう人々を見て思っていた。この程度の反応なら、誰人でも同じじゃないかと。


 はじめて彼が女の人を好きになった高校生の時、たとえ廊下や体育館倉庫があっても、そこで告白はすまいと決めてた。

 告白するなら、どっか前人未踏の場所がいいと…。

 でもそれがどこか分からなかったので、いつも心の中でしていた。そればかりかお手紙の中でもした。

 女の子は、何だかお部屋みたいな感じがした。甘い匂いの部屋だった。自分の知らない、自分の一部ではないのに、豊満な何かである事が分かった。こういう直感を生きがいとして、人間は日々食事したりウンチしたりするんだろうな。るんるん。そんな気分であった。

 でも今は同性愛者の居る会社で、そこのデスクで書類をまとめたり、遠慮がちに先方に電話をかけ、指にコードを巻き、そのぐあいを適当に遊んでいる。全部が遊び。全部がホモの居る雰囲気になった。

頭の毛から爪の垢まで。

 朝、会社にやってくると、「社会人席」「学生席」、それから「一般人席」というのにデスクが別れていた。彼が着くべき椅子、彼が敬礼すべき対象、そして彼が奉仕すべき陰部が3タイプあるのであった。

「一般人席」に座り、どてんと机に載せられた書類にサインしていった。

 それは自分がこの階層制から抜け出ない事の確認だ。学生とおぼしき草食男子が、お昼にラップの付いたおにぎりを食べているのを見て、学習する。学生は手作りのお弁当を、ゴムで止めており量も少なかった。自分はどうして、スタミナ丼とか、そういうのが食べたくなるのか。反省してみた。

 学生席でトランプ占いのようなものをし始めたので、仕事中にもかかわらず覗いた。「SPA!」を読もうと思って、社内の喫茶室に入ったけれど、彼以外の男の人が「VERY」とか「MORE」の付録をくみたててたので、読むのをやめた。学生ってこんなものなのだ。この先は社会人になるしかない種族だ。

 彼ら若者の洗礼の後、社会人席で尻の穴にバイブレーターを入れている人がいた。まだ学生席の連中はこのバイブを挿入していない。


 どこで配っているものなのか分からなかった。異常である。社会の仕組みとして、これを持っていない人は持てるようにならなければマズイのだろう。しかし、また何で、趣味のものをオフィスに持ち込むのか。彼らはふぞろいな音を立てて、尻の奥にそれを入れている。音が、した。しかし、それを誰が聞くのかと言えば、女性もいないし、まじめな連中は雇わないし、全然聞く耳がないのである。誰のバイブなのか。

 会社を出る時に、一番後ろから通って、学生席を抜けて、社会人席を通ろうとすると、数本の矢みたいなものが床に濡れそぼっていた。使用後のバイブである。彼はそれを手に持ち、ぬめる陰茎をバッグにしまった…。とにかく誰もそんな場面は見ていないのである。とくに夕方は、忙しい時間帯だ。


 こうして彼は会社からバイブを盗むのに成功した。

 ただし、この先どのようにこれで気持ちよくなればいいのか、が分からないのである。ものの本には、ゲイの嗜好の事はあっても、ゲイデビューの事までは書かれていない。正直、引いてた。こんなものが、あの会社の株を押し上げ、上場企業にまでしていたのか! 彼にとっては悪夢でも彼の望む世界では正しかったようだ。そう、彼はこの世界に望んで入っていった。夜のネオン街に落ちているビラと自分は同じ。同じ身分だ。取り柄もなければ趣味もない。アニメも好きじゃない、勝間和代も好きじゃない。ゲイでもない。じゃあ、何なのかと言えば、一人である。一コの人形ってわけ。この世界に、だれだか訳の分からない親に生み落とされて、自分らしく生きようって願っている。それが招いた、この剽窃行為。トランスセクシャルってわけ。

 自分がない。彼には自分というものがありませんでした!と言って地面に頭を殴打しているのだった。



煙幕

 昨夜は久びさに楽しい夢を見た。だからどうだという事はない。

 昨夜の夢は、おそろしく古い思い出だった。

 彼は友だちと線路沿いの道を歩き、煙草を吸っている。ただのけむりではなかった。それを吸い込んでは、むせるようにして嫌がった、友だちという存在。孤独な喫煙者を、友だちを連れている年の若い苦学生みたいなものに変える。彼の無意識が「けむり」を「副流煙」にする。アラジンのランプさながらの変身術。

 夢はまだ続いていた。

 彼はDoCoMoの電話を取り出したら、それをティンロティンロンロン♪と言う音に変えたのだ。木村カエラであった。線路沿いは夢から醒めた悲しい喪失感を、彼にのこした。できれば、木村カエラのことを、家に持って帰りたかった。そして、使う。


 彼はどちらかと言うと、今ふうのどこからともなく癒しを求めて湧いて出たような、貧相な地方出身者の趣である。ただ、彼は青森とか福島の方や、あるいは高知の方から出てきた男の子たちとは違った。東京に生まれて新宿の学校に通ってきた。つまり、そういう田舎者の気持ちわるさが無かった。

 気持ちわるいと言って語弊があるならば屈託と言いかえる事ができよう。

 彼らは文化に興味を持ち、その中枢とされる都心にやって来るのだが、案外馴染めないのだ。彼らは文化に理解するふりをしていて、そこに実は「癒し」を求めている。癒しを求めて涌くのである。だから結局、郷愁のような、ひどく平凡なうえに残念なものを求めてしまう。

 だったら田舎に帰ればいいじゃないか、と彼などは思っている。

 自分が人間としてできる事。常にそれを考えた時に、田舎から出てきた癒しを漁る人たちとは、違うことができないか?と思ってきた。文化というのはもっと広範囲に及んでいなければならない。自分は、そんな気持ちを存外持っているのだ。最初に歌をつくった時にまず、タイトルとサビの部分が浮かび、それをMDに入れた。吹き込まれた自分の声を使って遊んだ。

「戻れない丘」という曲だった。歌詞に、もう戻れない丘に立っている/一歩進めば転落で、一歩の後ずさりが自分の株の暴落で/ところで今何時? というような事があった。苦し紛れで綴ったのである。果たして、こんな歌を郷愁の画材屋さんたちに作れるのかしらん。どうでもいい事だった。

 それよりも酒、レモンを絞ったサワーを飲ませないか。そう喚きたかった。だけれど、そういう卓袱台がえしをしても一回しか通用しない。一回までなのだ。二回目以降はしみじみと思案する。彼はそのような人生を選んだ。


 ところで彼のバイブレーターの件だが、それは淋しい事だが、たとえばどこかから電話で「その件でお電話しました」などとは掛からない。ちょっとした隙に入れてみようかな?と思い巡らすのがバイブ。それは当り前の事であって、普段はまじめにしている人が大半で、素行調査では見抜けない質のものなのである。そこには干渉もない。彼は、この陰茎を非常な厄介事と思った…。

 それは、干渉がなく一溜りの感受性によって満足が得られたからだ。何の見返りも期待せずに、エステに通ったり、グルーピーとしてタレントの追っかけをするのと同じだった。つまり、他人に見られること、ある種のコミュニケーションの一形態としての振る舞いはなくて、ただ自身の欲望に自信がなければならなかった。相手がおらず、相手からこちらが見られるという事がない、バイブの震動に似た、その孤独に耐え忍ぶ事。

 何物かに向けてひたすら自己ピーアールすることと同じだった。

 欲望に自信がないわけではなかった。いろいろな努力をして、人にない力を身につけるのは得意だった。というのは、先の田舎もののように、自分は軟弱じゃなかったし、失望とか落胆とも無縁だった。無意味だとしてもだ。彼が働いたおかまばかりの職場は、その孤独の使用をいわば集団意識でオブラートに包み、身を委ねていた。したがって、そこを最果てと言うことができなかった。上質であると認定できなかった。


 近道早人が会社から持ち去ったのは、この社会の闇を解く鍵だ。これは便利なもので、何にでも融通が利いた。

 ピアノの下にいるみたいだった。なにか物騒だ、どこかしら変にも思える異化された空間を、そう名を付した。

 彼が学生のころに、みんなで集まって、飲み会を開いた。顔を赤くして陽気な、冗舌な人になるケースも、急に落ちこんで穴蔵の中から何かをわめくようなケースも見てきた。しかし、そのどれにも自分は当てはまる事がない。彼の学校生活は、ただ人間の在り様のすなおな負傷感を見ていたにすぎなかった。彼が見ていたのは実は、とても思わせぶりな表面であった。人間というのは誰に、

「あなたのそういうところが好きです」

 と言われたわけでもないのに、思わせぶりになる。

 彼は、そういう一切に対して冷徹で、見苦しいものを見ていた。

「そんなに格好つけなくても、あなたのことをバカにしたりそれ以上の注意力であなたを観察している人は、この列車の中にいません」

 すると、

「いいえ、わたしは格好つけてるのでも、ポーズで人を牽制しているのでもありません。

 天気を気にして折り畳み傘を持って出かけるのと一緒で、前もって、こういう風に人前ではしよう、というのがあるんです」

 とか言われてしまう。

 しかしお酒を呑むと、呑まされたようになり、その折り畳み傘の用意を忘れてしまう。ならばはじめから、ビショ濡れになる覚悟でおればよろしい!

「なんだかなぁ~」と彼が思うのはそこだ。

 みなが心の内側に、折り畳み傘を用意している自己にたいする鬱陶しさを感じている。これは便利なカラダじゃないというのが分かっている。白木屋とか、iフォンとかiパッドとかが、その心の渇きを癒し、金を払わせる。おっさんにはパチンコ屋で、信心が深ければ、幸福実現党とか、そんなカラクリが必要になる。ようござんしたな!

 そんな感じ。


                         *


 近道早人の出番だった。バイブって、闇に溶けようとばかりして相対化を拒むところがあった。この淋しいだけの世界を相対化するのが彼の仕事である。定義というのはこうだった。平成の首相も、アバターのCG部分さえ、この事業ではなかった。仕事というのはこうも深いのか。オーケストラの伴奏も、乞食のどさ回りもこの事業と違った。

「腹時計の鳴る日に」という詩集を先日手に入れた。彼が歩いていた古書店の居並ぶ通りでは、決してめずらしい題名ではない。ありふれたタイトルである。

 彼は犬を飼うヒトのように、鞄にバイブを入れていた。こういうものを持って歩くと、やや平凡なものであってもその作品に入ってみようという気になる。詩集というのはこういう時に便利だ。鞄が突然うごき出し、和製ホラー映像のように、暗く、ただ揺れるにまかせるしかない不吉な呪いとも似ていた。

 バイブの電源を入れた時に、この感覚に、おぼえがあった。何か、大人しかった頃の自分に似て、また掛け値なしに侮辱的な何かにも似ている。自己批判のバイオリズム。この感覚はそれだった。とまれ自己を批判し、糾弾し、断罪することにたいした意味はない。自己を「無意味」同然として、みなさまに謝罪し、おごりたかぶって踏んずけた、あらゆるありふれた不幸に対して、よく見ると面白いと観察すべく時間。バイブの時間だって。

 彼は「腹時計の鳴る日に」をところどころ読んでは、近くのスーパーで買ってきた惣菜などと一緒に吟味した。ドラッグストアにもバイブを連れていき、自分がこの機器を介してどのようにうごかされるのかを試した。彼はヘアスタイル・ジェル、にきびの予防薬、かちゅうしゃみたいなヘアゴムと混ぜて、梳るためのカーラーを買っていた。短い髪なのに、必要になった。見おぼえのない自分の貌を、まるで信じられないと、言ってみたかった。

 女装したくなったのだ。人間に2タイプある性別のうち、グレーの部分で生きるのは嫌だった。それは言語によって名付けられるのを待つ、あわれな男娼である。そうではなくていつでも男に戻れるし、いつでも男でないものにできる身体が、自分に合っていた。お節介な、男にでも女にでも、なれる。けれど、自分を定義するときは慎重だし非常に消極的なのだ。彼はふらふらと夜の町をさまよった。


                 Art Work: Jin Kitamura (2010)


bottom of page