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キャット ノート

 街にはとびきり美しい猫がいるとの評判が立った。その猫の話しをするひとは、犬のように従順だった。彼らは言ってみれば「人間の犬」なのであった。人間は自由でない。

 人間は予め与えられた心の範囲を模索しつづけているだけで――。

 新しい心。新しい生活の規範。それが予め奪われている。

 人間は、人間の犬なのだ。そして心が壊れてしまうことがあり、人の心を傷つけてしまうことがある。そういうひとたちは、精神病棟の犬、刑務所の犬になる。周囲には〝私は神だ! 神になる権利を得た!〟とうそぶいて。

 犬の生活が、人間の生活だった。大きな〝人間〟という名のテーマパークをハイカイするだけの犬たちのなかにあってその美しい猫のことはドキドキの対象だった。

 猫はまず名まえを持たなかった。というか持てなかったのである。美しい猫のまえで人間はみずからのことを細かく言いたがる犬のきたなさで現れ、猫が閉口したためである。本当は猫には名まえがあった。

 だが、街での生活は、みずからの出自を忘れてしまうぐらい、不慣れなものだった。そのため、名まえすら思い出せない。

 口を開こうとすると、細かく人間の規範を言ってくる者たちが、口を開かせなくさせた。声を出し、足を出そうとすると、公明正大な者たちが、前を塞いでいた。

 この犬のやっていることを、〝真似る〟という形で順応し、なに者かであろうとしたこと――。

 猫がその生涯において、もっともみじめな体験であった。

 猫はアルミの缶を拾ってきて、そこに尻をつけて座ると、犬がどんな内部を持ち、犬の相手にどう語りかけているのかを見ている。顔をつきあわせれば、何らかの共通項を割り出して、でた数字が好感度だ。その数字を犬の友愛にかけてドッグナンバーとして他の者たちに露見する。

 ドッグナンバーが、いわゆるコミュニケーション能力ということで金にもなれば幸福にもなる。

 中国だか韓国だかでは、カップルはそろいの服を着、そろいの格好を見せることで、その他の人を威圧するらしい。

〝我々は幸福だ!〟と言いたいのだという。差しあたり、彼らの持っているドッグナンバーは2人分のみだからカップルなんて、大した存在ではない。

 なんていうか、ドッグナンバーというのは、もっと危険なものである。他の人を威圧するための武器というのでは役不足なのだ。もう、笑顔とかそういうことでない。数学的に、戦略的に、確信犯的に行使されるもので、カップルなんて、乗り物に乗っているだけだと思う。

 カップルが何を考えるかな? 庶民が庶民に見せびらかして、〝我々は幸福だ!〟と胸を張らせちゃうことって何かな? 何に発情するかな?

 例えば何を通して、自己を語ろうとするかな? なんてことを、図々しく練りつづけた者に、ジャンボなドッグナンバーが付与される仕組だ。

 ジャンボなカラオケボックスの店長が、犬の中の王ってわけ。

 猫がそのドッグナンバーを持たずに生活しているのは言うまでもない。彼が独身を貫き、この先にいかなる幸福とも無縁な生涯を送り、どんな高級カラオケボックスでも歌わないのは目に見えている。

 犬の街で猫は孤独な生涯を送った。

 猫はきょうもその映写機のまえでフィルムをかたかた回し、自分が映っているはずの風景の中に、自分の姿があるのか無いのか探っていた。

 あるバランスをもってすれば、どんなつまらない世間にも顔を上げることができるのだと。そう信じていた。

 うつむいたら終わりなのだ。映写機のまえで、そう漏らした。

 目にはいつも、彼と彼以外があった。そこに没入して、その差異に強くこだわり、絶えず望みを失って、顔を横に向けていたりすれば、

「すぐ犬になってしまう」ことを実は知っていたのだ。

 彼はその点で賢く、すべては映像の中の一景として済ませて、彼は一景の中にもぐり込ませている姿を、事後的に知るという形式で自分を知ることにしていた。つまり、二重生活を送っていたのだ…。彼の中で時は2倍あった。

 1倍の世界では人間は犬である。

 この事実を知る者は存在しない。

 2倍の世界では人間は猫である。アーティストである。絵描きである。

 事実をその世界が握る以上、あの世界では事実ではない。

 なぜ街で美しい猫がいると評判になったのか? もちろん、CDにも雑誌にもトラックにもパチンコ台にもドラッガーの著書にもその存在が明らかにされてはいなかった。例えばデスノートのような、人間の世界を遠隔的に操作するノートが存在し、アーティストがそれを持ち、そこに破滅的な絵を描いて、世界を想定外のことでジュウリンでもすれば、その机に座っているものを猫と見なすことができよう。

 しかし、それは人間の仕業なのだ。犬がやりゃいいことで、彼の出番じゃない。

 愚かなことをするのが猫の領分ではなかった。だとすれば、彼はどこに出現し、どこを歩いているのか?

 彼を見たというひとは感情の湧き出ていない言葉の泉を見たのだと証言し、またあるひとはどこにでもいそうな親切な人だったと言っている。どこにも無さそうで、どこかにいそうな風貌の持ち主なのだと。


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